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オタク思想とオタク地獄とラブコメと萌え4コマ漫画

【反省】にこ合自分の記事だけ振り返り

にこみ先生の新作が来るんですって!!!読もう!!!

 

 

 

そんなにこみ先生についてまとめられた合同をよろしくね!!!

 

本記事はここに寄稿した文章、「放課後すとりっぷにおける”絵を描く”という行為」へのあとがきというか....

 

反省です

 

反省をしましょう

 

何の???

 

何って私の怪文書の!!!あれは反省した方がいいです。何でかって...読み込みがもっと足りていればもっといいものが書けたから。まあまだまだ終わっていない私の放課後すとりっぷ探究道。華道茶道などなどありますが...放課後すとりっぷ探究道は終わりません。さて、私の記事でしたが青野林檎と梶井基次郎の共通点を捻り出すためにいくつかぎんしおとの比較を行いました。

 

それがよくなかったです。文章の構成的にはわかりやすくキャッチーなんですけど...その結果大切なものを見落としていましたね。それはにこみ先生の感想で指摘されていたように、写真は写真で多視点を実現しているということ、ぎんしお少々でもそれは描かれていたという事...前者のの事実は私は多分脚注に書いたと思うのですが、そこにもっと目を向けた方が良かった。神霊的なものにとらわれすぎてしまったです

 

しかしその際の多視点の実現は、やはり時間という要素が外せないと思います。ロランバルトを読んでいて感じたのですが、なんとなく写真とは死者蘇生の一環であるような印象を受けました。写真が語るのは「かつて そこに あった」ということ。過去その人がそこにいたことのみを語る...的なことが書かれています。死者蘇生と私が思ったのは死者の写真とは「これから亡くなるがまだ亡くなっていない人の写真」であるみたいな...そんな感じだったりとか。

 

複数の人物像が存在しえるという点では絵を描くことも写真を撮影することも同様です。そういうわけなので、「被写体を見る複数の視点が存在している」という点から写真と絵画を区別することは不可能そうです。つまり私の怪文書は大層検討外れなことを言っている

 

じゃあ全部ダメなのか、というとそうでもありません。1つ興味深い疑問が生まれました。その話がしたい

 

明るい部屋をちゃんと読むと絵画と写真の差異が明記されています*1。それは絵画に写された被写体は実在していなくてもいいが、写真の場合それは必ずカメラの前に実在しないといけないということ。この事実から写真は強烈な実在性証明になりえるわけです

 

さて、写真における多視点...ぎんしお少々は実際に時間を扱っていた作品だと思いますが、撮影時における多視点の1つとは本文脚注にも書いた通り現像時どう写るかを想像することだと思います。ここに注目する点は前者の「かつて そこに あった」という事は過去の話だからで、私が注目した多視点は絵を描いているときに青野林檎が二人存在しているというリアルタイム性のあるものです。なので撮影時の他支店に注目してみます

 

例えば青野林檎だったり秋映さんだったり、彼女達の表現手段が絵画だったろうが写真だったろうが、どういう想像をしているのかを知る事は本編のエピソードから察するのは困難であると思われます。私の怪文書に書いた通りですが、彼女達の多視点とは作品の完成を想像することとはあまり思えないからです。しかし写真の意味での多視点に心あたりのある人物がいます。

 

それは白石さんです。白石さんがもし写真を撮られるなら、どう映るかのかを想像するとして、つまり自身を俯瞰するとしてどういう感情を抱くかは本編から推察することが出来ます。

 

おそらく白石さんは、少なくとも中学生の時点では写真を撮られる事、あるいはその際に想像する自身を好いていないはずです。そうそれは放課後すとりっぷ1話...

 

「私、今まで自分のこと、見た目...好きじゃなかったんです」

 

人間は構造上、自分自身を直接見ることはできません。自分の見た目を知る術は鏡や水面に映るとか、写真に撮ってもらうとか...そういう感じでのみ自身の姿を知るはずです。そして写真に収められる機会はこれまでもあったはずです。もちろん何かしら特別な存在に撮られた写真のように文脈が付与されるなら話は別ですが、少なくとも素朴な意味の"写真に写る自分"、そして"想像の中で写真に写される自身の姿"を好ましいものと思うとは考えにくいですし、概ね事実として認めて良いと思われます。

 

これは絵画でも同様のはずです。白石さんは美術の時間にはじめて描かれる際、"こういう風に描かれるであろう自身の姿"を好ましいと思っていなかった。その結果青野林檎により描かれた自身に衝撃を受けたわけです

 

さて絵画と写真の異なる点...それは被写体の実在性。青野林檎が描いたのは白石さんの姿だったのでしょうか。青野林檎が写真を撮って白石さんに見せるという形で放課後すとりっぷという物語は始まったのか。これが疑問です。青野林檎が画用紙に抽出したものが白石さんの魂などにまつわる部分ではないのか

 

そんなことを考えると案外青野林檎が白石さんの魂に触れている、魂に触れられるものは魂しかなさそうです。つまり魂の融合が発生している。そうして私の書いた説は修正出来そうです。

 

というわけで、「もし青野林檎の表現手段が写真だったら放課後すとりっぷは成立したのか」より詳細に「もし青野林檎の表現手段が写真だったら白石さんは青野林檎に自身を撮影してくれと頼んだのか」という疑問が生じました。これを考えてこそぎんしお少々との対比に意味が出てくるのではないでしょうか。

 

"青野林檎が描いたのは白石さんの実在の姿ではなかった"

 

そんな仮説を前提とすればまあ見れない文章でもないかな...でもほら写真って魂を抜き取るとか言いますし...案外写真でも成立するのかもしれない。しかし白石さんのモデルは石膏ですし、そういうものに魂があったのかどうかとか、まあ考えるべきことはまだまだたくさんあるなと

 

これ掘り下げていけば結局のところ、青野林檎、秋映あかねは何を描いているのかという問いで、これは非常に「絵を描くという行為」への問いですね。そしてやはり、ここは梶井基次郎の「城のある町にて」に帰着されるような、そんな予感があります。

 

しかしそれを結論付けるためにはまだまだ考察が不足しているわけです。今後も頑張っていこう。

 

総括!!!!!!!

 

考察が足りない!!!!!!!!!!!!!!!!

 

これに対してにこみ先生が感想を書かないでくれたの本当に嬉しかったです。答え合わせになっちゃうからね...

 

そんなわけでこんな文章を書いて申し訳ないという若干の気持ちと、いろんな作品があってめちゃアラカルトな仕上がりの一冊でしたが、確実にその一助にはなれたでしょうという気持ちを胸に、改めてにこみ先生と主催の岩崎さん、合同参加者には感謝の意を表明したく思います。ありがとうございました!

*1:この本を雰囲気で中途半端に読んで執筆したことが一番の問題であるが、私は梶井の論説を読むので手いっぱいだった事情もあるから恩赦がほしい。今は最後までちゃんと読んでいる